(※長文&すっきりしない文章です)

自分は中学時代に歴史に目覚めて高校時代のあだ名が「歴史くん」。今も生粋の歴史オタク。正直言うと自分より歴史に詳しい人間はそうそういないんじゃないかって思ってる。歴史を知ることは趣味。終戦記念日であろうとなかろうと年から年中歴史のことを考えたり調べたりしてる(例えばゴーヤチャンプルを食べてる途中「ゴーヤの歴史ってなんだろ」と食べるのを中断していきなり調べ始めたり、なんの脈絡もなく沸いた疑問もすぐ調べるようにしてる)。だから別にこの日だけ「英霊に感謝」とか「惨劇を繰り返さない」といった類の投稿に多少の薄っぺらさも感じてしまう。自分自身、他の人よりずっと多く歴史を学んだという自負はあるし、戦争を教訓にして二度とこうしたことを繰り返すまいという使命感も抱いている。戦争を起こさせないことは政治家の大きな使命の一つだ。先般の原爆に関する展示も本当に胸がつまる内容だった。しかし安易に戦争のことを引き合いに出して自分の政治的アピールに利用することにどうしても抵抗を感じ、ついには書けなかった。

 

歴史を愛する人間にとっての一番の懸念は以下の一節に集約される。

 

「国家像や人間像を悪玉か善玉かという、その両極端でしかとらえられないというのは、いまの歴史科学のぬきさしならぬ不自由さであり、その点のみからいえば、歴史科学は近代精神をよりすくなくしかもっていないか、もとうにも持ちえない重大な欠陥が、宿命としてあるようにおもえる。他の科学に、悪玉か善玉かというようなわけかたはない。たとえば水素は悪玉で酸素は善玉であるというようなことはないであろう。そういうことは絶対にないという場所ではじめて科学というものが成立するのだが、ある種の歴史科学の不幸は、むしろ逆に悪玉と善玉とわける地点から成立してゆくというところにある。」

坂の上の雲(司馬遼太郎)より

 

この文章を読んでいる人の中には山本がどっち(いわゆる右左)の史観なのか、という姿勢で読んでいる人もいるかもしれない。しかし自分が最も危惧しているのは、そのような姿勢で歴史と向き合うことの危険性だ。

歴史に関する言説を色々拝見するが、頻繁に感じるのは価値判断や解釈、あるいはイデオロギーを重視し過ぎてて、一番大事なはずの「事実(ファクト)」があまりにも軽視されていないか、ということだ。本来だったらファクトにファクトを重ねて、最後の最後に必要であれば価値判断、解釈を加えて次の時代を築いていく上の糧にしていくべきだ。しかし昨今の言説では感情や価値判断や解釈ありきで、それがあまりにも重すぎて土台となるべきファクトが埋もれていってしまう、そんなことが横行しているような気がしてならない。歴史はより良い次の時代を築いていく上では本当に大きな学びや教訓を与えてくれる。社会が上手くいくかいかないかの事例は歴史からしか得られない。政治家がなぜもっと歴史を重視しないか不思議に思うこともある(ちなみに己のイデオロギーや自尊心のために歴史を利用する政治家は上記理由により論外)。歴史を本当の糧にするには多くのファクトを積み上げていかねばならない。例えば軍部が悪玉で虐げられる国民、という矮小化された結論では、「この時代に悪い人たちがいました」と片付けられ、何の学びにも糧にもならない。価値判断はぎりぎりまで避けるべきだ。

アジア・太平洋戦争に関する認識が政治問題・国際問題と絡むことは避けがたい。また、感情抜きでも語りがたい。だが歴史という学問にとってはそのことは非常に不幸なことだとも思う。右とか左とか関係なく、価値判断ありきの歴史認識が歴史の真実からどんどん離れていかないか、あるいは大事な歴史の事実が見落とされないか、大きな懸念を抱いている。

 

学生時代に受講してた吉田裕先生の「アジア・太平洋戦争」(岩波新書)を久しぶりに手に取ってみた。

2011年に初めて読んでみて、単純なデータや事実から、世間でまかり通ってる言説がいかに単純化されたものかが明らかになり、当時の自分には目から鱗であり、今さっき斜め読みしただけでも改めて内容を思い出した。例えば以下の見受けられがちな言説。事実を見れば、真実はそんな単純な問題でないことは明らかだ。

【言説1】開戦の大義はアジアの欧米からの解放だった

⇒開戦当初の軍部は人種戦争(西欧対アジア)という論を排除する検閲をしていた(独伊やソ連に対して警戒心を抱かせたくないため)

【言説2】国民を根こそぎ徴兵した

⇒総人口における動員兵力の割合は米英独ソより少なかった(44年末時点)。けど農工業はそれらの国より逼迫した事情があった。

【言説3】アメリカと圧倒的国力差があるにも関わらず戦争に踏み切った

⇒国内総生産では日米間では大きな開きがあるが、開戦当初の太平洋地域における戦力は日本がアメリカを凌駕していた。しかしその後のアメリカの急速な戦時体制の確立で逆転された。

 

暫定的にであれ自分の中にも歴史に対する価値判断と解釈はある。自分もこんな小難しいことを書かないで、戦争の惨禍を二度と繰り返さないという誓いを書くこともできただろう(それにそっちの方が「いいね」の数も多いんだろうし…)。しかし、ファクトを積み上げれば積み上げるほど、実際には一概に言えるものなどほとんどなく、その価値判断は難しいものになっていくのを感じている。事実を知れば知るほど、簡単な総括や安直に見出す歴史的意義の乱暴さを感じずにはいられず、かえってものを言いづらくなった。とても歯がゆく感じるし、いまいち締まりの悪い文章になってしまった。しかし、その歯がゆさが歴史を学ぶ奥深さでもあるのではないかと思うし、歯がゆさの中で事実を積み上げることが次の社会への糧となり、ひいてはそれが歴史を尊重することになるのではないか。歴史は自分のライフワークになるだろう。これからも真摯に歴史と向き合っていきたい。