今年のクリスマスイブは以前から好きだったディケンズの名作「クリスマス・キャロル」を読んだり、クリスマスカード書いたり(←クリスマスの日に書くんじゃなくてクリスマスの日までに届けるものだとか言わないw)過ごしている。明日はお世話になってる福祉作業所のクリスマスパーティーにお呼ばれされてたりとかでここ数年で一番クリスマスらしい過ごし方をしている気がする。季節感を大事にしたいと思っている身としては嬉しい限りだ。
クリスマス・キャロルは初めて読んだのがいつだったかは覚えていないが、平易なストーリーでありながらも社会の弱者に対するまなざしを向けている良い作品だ。小説に感銘を受けてディズニーのクリスマス・キャロルも何度も観てしまった。先日招かれた東京賢治シュタイナー学校の劇「オリバー・ツイスト」が素晴らしくて、久しぶりに同じ作者のクリスマス・キャロルを読みたいと思っていたところだった。
ディケンズが生きたのはビクトリア朝と呼ばれる時代。大英帝国が産業革命の成熟で繁栄の絶頂期を迎えている一方、貧困問題、児童労働、公害、感染症の流行といった資本主義による歪みがかつてないほど深刻化していた。ディケンズは自身が困窮していたことや新聞記者出身だったりしたこともあって、繁栄の影で生きる人たちにスポットを当てて社会を風刺していて、クリスマス・キャロルにもそんな姿勢を垣間見ることができる。
主人公のスクルージは並外れた守銭奴で気難しくて友達もいなくて孤独に生きていた。クリスマスも祝うことなく不機嫌に過ごしている主人公に精霊が現れて、過去・現在・未来のクリスマスを見て、人間らしい心や人生を楽しむことを取り戻していく。至って素朴だけど良い話だ。

【今回読み直して思ったこと】
久しぶりに読み直して、これまでと違った感想を抱いた。主人公のスクルージはロンドンでも指折りの性悪な守銭奴であるかのような描写がされているが、「これくらいの人間だったら今の日本に普通にいるんじゃね?」と感じた。貧しい人への寄付のお願いが来たときには「そういう連中は牢屋や救貧院に行けばいい。自分はそれらの施設の維持にも貢献してるからこれ以上寄付する気はない。あそこへ行くなら死んだ方がマシだというのなら死ねばいい。余分な人口が減ってちょうど良い」というようなことを言うのだが、今の日本だったら同じようなこと思ってる人は悲しいかな特段珍しくはないだろう。政治家ですらニートが憲法違反だとか生活保護を現物支給だと平気で言い出す世の中においてはスクルージはいくらでもいるよな…そう思ってしまった。かつての時代と同じくらい格差が広がってるのかなとも思った。
クリスチャンでなくとも誰もが誰かを思いやれるようなクリスマスを過ごせることを願ってやまない。

「マントの裾の間から子供が二人、背中を押されてよろけ出た。薄汚れて、みじめにやせこけ、醜いうえに気味悪い。目をそむけたくなる姿だった。二人は地べたに膝をついて精霊の裾にすがった。『そうら、見ろ!よく目を開けて、まっすぐ!』精霊は声を荒げた。子供は男と女だった。(中略)『男の子は<無知>、女の子は<貧困>だ。二人に心せよ。二人と同じ階級の者みなすべてに注意を向けなければならないが、中でも男の子には要人しろ。俺にはわかっている。まだ消されずに残っているなら、額に<破滅>の文字が読めるはずだ。頑としてこれを拒め。』」(本文より)